大勢の共通項によって得られる結果をほとんどの人は既に見ていると思います。
TVのバラエティー番組等がそうですが、現在のコミュニティーアートに関してはどうでしょうか?
少なくとも、それをアートに求めるのはどうなのでしょうか?
個人的には、そういったものはデザインであったりするわけです。
ここでは、”文化で地域ににぎわいを!”と書かれています。
それはそうでしょう・・その箇所にはアートと言う文字が書かれていないのだから、そうだとしか言いようがありません。
このイベントに参加するにつき、まちアートマネジメント講座の受講生たちと対面することになります。
おそらく、現在のコミュニティーアートに関しての疑いがある人は少ないだろうと思います。
このイベントは、彼らによるキュレーションによって作家が選ばれます。
何度かの対面で、彼らから表と裏のテーマが投げかけられました。
それによって、ぼくの作品の方向性が確定されます。
表には従来どおりの、当たり障りの無い作品が展示されます。
年々その傾向は顕著になり、多くの人の共通項から得られる回答らしきものが並びます。日常性からかけ離れた作品や、いわゆる定番の問題提示以外の新たな問題提示等は皆無で、いわゆる考える要素というものは希薄になってきています。
これは、こういう環境化ではありがちな現象かと思いますが、ネット以降顕著になってきていると思います。
いわゆる思考停止のプログラムのようにも思えますし、それによって問題に蓋をして考えないようにする・・いや、自然にそうなるから、サブリミナルのようにTV等でも繰り返しアートという言葉が流れ、行政、企業も関わり、低予算で可能なことから、実施しやすい社会実験のようにも思えます。
美しいもの、言葉を蔓延させることで、ことお互いに監視されがちな現代では、驚くほど表上の不満の声は聞こえてこなくなりました。コミュニティーの格差は広がり続けているにも関わらずです。この点には、新自由主義(ネオリベラリズム)の影が見えることは否めない感じを受けます。
美しいとされるものには免罪符が与えられ、その存在そのものに疑問を投げかけることは一般には避けられます。
ここに問題を投げかける実験と、個人的テーマを合わせて作品を発表することにしました。
これからアートに関わろうとする受講生に見てほしい想いもあります。
これは、ぼくなりの思考停止解除プログラムでもあります。
ぼくの作品は、表通りの裏にあり、展示スペースとしても、最も荒廃したものです・・それそのものは珍しいものではないですが、表との対比でイベントそのものを現在の表現における表と裏・・現在のシーンの縮図になるように作品を考えました。
ぼく わたし が いきるために ころした たましい ここに ねむる
以降は主に写真
この作品を写真で再現することは困難で、照明器具も何パターンか変えて撮影しましましたが、結果としては不可能という回答に至りました。
なので、多少はマシであろう動画で記録をすることにしました。
作品は一般論で言えば、コミュニティーにふさわしいとは言えないかもしれません。
が、現代における問題を提示することを前提に考えました。
表と裏というテーマには添っていると思いますし、表の作品とも対照的なものになりました。
結論としては、これに疑問を抱き、考えるお客さんが多かったことは、ぼくにとっての収穫になったように思います。
コミュニティーアートに参加しながら、それを否定し、運営からもそれが見えるように行動し、周囲の人も多くはそれの関係者でありながら批判・・
これは、今回の作品におけるぼくのテーマでもありますし、周囲の監視がある中で、あえてやることに意味を感じました・・
個人的に、コミュニティーアートでは求められがちな、周囲との共通項の中では、作品を作れないと思ったからです。まずは、それを断ち切るような行為が必要でした。
個人的に、コミュニティーアートでは求められがちな、周囲との共通項の中では、作品を作れないと思ったからです。まずは、それを断ち切るような行為が必要でした。
美しいもの、言葉、その中で暗黙のようにある圧力、大多数の共通項から生まれる強大な意志・・その中で、表現活動というものが表面的になり個人の意志が踏み潰される・・その中で自分が生きるために殺した魂というのは自己の反省でもあり、これは人が生き物である以上、必ず墓の中から復活し、いずれは強大な意志の中で個人の意志は逞しく生きる・・それを信じたいと思います。これは、どのようなジャンルであれ、今後問われることになると思います。
厄介な人に最後までお付き合いいただいた受講生の方々には、とても感謝しています。